三好豊一郎 「夕映」

2024.8.5(石川樹林)

           夕映

夕映の そこに何の秘密があるか?
黒い小さな一羽の鳥が
一日の希望の名残り 夕映の残照を身に浴びて
高く遠く 雲の挟を越えていく
空気はつめたく澄んでいる
そのあえぐ喙までがはっきりと見えるほど…
睡りに落ちるまえのひととき 私は思い描く
かなしいまでに美しい今日の夕映を
熱い瞼の裏を暗転する地球のうえで
みもだえる一羽の小さな鳥影を
血を吐きながら わなないて
わななきながら 咳込んで
天と地の間 金と緑のもえあがる夕映の水に落とす
脱出の苦悩の影を
―それはだんだんと遠ざかる 意識から
夢と現のいりまじる茜の映えを追いかけながら
やがて私は沈んでいく
睡眠の暗い底へ…

はじめに

 今回は、引き続き八王子の詩人・三好豊一郎の詩をご紹介いたします。「夕映」です。
 前回取り上げた「囚人」と同様に戦時中に書かれた中の1篇ですが、この作品を2023年の夏に初めて読み、深く感銘したことを覚えています。
 河津さんの戦後詩の講座に向けての発信にも触発されて「荒地派」の詩をちょうど読み始めた頃です。この記事では、「夕映」の詩が、私の心をどのように動かしたのかを探りながら、あまり目に触れることのない三好氏の詩論についてもご紹介できればと思います。行く先々での寄り道が多い旅ともなりますが、ご一緒に歩いていただければ幸いです。

1. 「夕映」への感銘

 この作品を読んだのは、奥多摩に近い武蔵五日市駅近くのカフエでした。
読み終わったとき、鳥肌がたつような感覚となり、自分の腕をわざわざ見つめてみたほどです。直前まで秋川渓谷が見える野外テラスで、白いしぶきをあげながら下っていく清流をぼんやりと見ていたことも関係したのかもしれません。山々の間を縫っていくような川の流れに、心の余白がひろがり、自分に欠落している言葉を無意識に手繰り寄せていたかもしれません。

2 . 「黒い小さな一羽の鳥」とは?

「夕映」の詩のどこに魅かれたのでしょう。少し振り返ってみたいと思います。
題名の「夕映」は、抒情的なおだやかな美しい空の風景を連想します。
 しかし、詩の最初の1行目からいきなり「夕映の そこに何の秘密があるか?」と疑問形からの始まり。題名の穏やかさをひっくり返すような問いです。
私には、このような始まり方をする詩を読んだ経験はなかったかと思います。
ましてや、「夕映」と「秘密」という言葉の出会わせ方、自問自答のような問いに自然と引き寄せられてしまいました。
そして最後まで読み切ったとき、この「黒い小さな一羽の鳥」は三好氏自身であり、彼の鬱屈とした心情を見事に表現しているのではないかと思えたのです。
「黒い小さな一羽の鳥」。この「黒い」は時代に対する自分の感情の色。
「小さな」は自分の存在の形や弱さ。そして群ではない「一羽の鳥」の姿こそは三好氏自身の投影。すると茜色の夕映えの中を飛ぶその「鳥」をじっと見つめている八王子の三好氏のすがたも同時に見えてきます。それは「地球の上」という広さを見据えながら、どんな微細な感情も見逃さず「喙」(くちばし)の震えも見逃さない心眼としての視線です。

3.「絶望」的心情と葛藤

「夕映」を飛ぶ一羽の鳥は、「血を吐きながら わなないて」「わななきながら咳込んで」と表現され、最後は「やがて私は沈んでいく 睡眠の暗い底へ…」と沈鬱な闇夜に落ちていくように結ばれます。絶望的な心情は、茜色の「夕映」の美しさと重ね合わせられより濃厚に強調されます。
 しかし、私はこの詩に、「絶望」的に墜ちていくだけの感情ではないものが感じていったのです。それは、「一羽の鳥」が「高く遠く…空気はつめたく澄んでいる」なかを飛ぶ崇高な鳥を思わせ、静かな意思をもち、とても理性的な葛藤を抱いて生きているように思えたからかもしれません。あえていえば、暗い時代のなかで「絶望」の心情を詠いあげられる健全さとともに、「脱出の苦悩」の精神が伝わりどこかで共感したのでしょう。戦争中という何もかもが一色に染め上げられそうなときにも、「夕映」を見ながら、自分の心を顧み俯瞰することを忘れず、けっして詩を手放さなかった三好氏に一瞬で共鳴し心を動かされたのです。

4. 本とパラフィン

 そして引き続き、この私を魅了した詩人は、どういう人物で、詩についてどのように考えていたのかについて興味が向いていきました。直観的な共鳴の理由を探していく旅の始まりでもあったといえましょう。
今年になり、『蜉蝣雑録』『内部の錘』(詩人論)の2冊を秋田県の古本屋からやっと手に入れることができました。本と対面したときには、ため息がこぼれました。
 特に『蜉蝣雑録』(かげろうざつろく)は、職人的な丁寧さで薄いパラフィン紙に外函も本も包まれていたのです。1ミリのズレもなく貼り付けられたように。端の折られ方も完璧に美しいのです。本を開けば、再びパラフィンに三好氏が毛筆で書いた書の題名、そのあとにザクロの水彩画の口絵です。著者の詩と毛筆と画からなる本だったのです。
『内部の錘』は、表紙の裏に直筆のサインが大きく書かれていました。
 世の中の何もかもが消費的で便利さが重視されるなかにあって、詩に関する本が、著作集や全集でもないのに外函のある書物として届けられたことは、感動的でもありました。三好氏の本を多く手がけ、細部へのこだわりをもった小沢書店、そして本を最良の状態で維持しようとする努力を惜しまない古書店主たちが積み重ねてきた熱意を感じ、深い敬意を覚えました。

5. 三好氏(荒地派)から見た詩人たち

 この『蜉蝣雑録』を読み進めると、三好氏の戦時中の心情や、その当時の詩と詩人たちへの考えが垣間見えてきます。すこし長いですが、心に残ったところなので引用します。
 最終章の「生活者としての詩人」と題する詩人・石川啄木の紹介の後に続く文章です。『…モダニズムの詩の批判から出発したわれわれのグループ「荒地」の詩も啄木流にいえば「生きるべき詩」と言えようか。モダニズム批判とは自己批判でもあって、われわれはモダニズムの影響下に出発したのだが、「軍閥政府の強権と戦争の圧力」は文学青年の机上の言語遊戯にも暗雲を投じ、たちまち苦渋の色をおぼえさせた。当時はまだ、文学者としての良心とか責任を問われるような年齢にも位置にも達していず、言語をあやつる術の興味に目覚めはじめた10代の終わりころであったが、われわれは戦前、戦中、戦後を通して、便宜主義的な政治家とは違ってそれぞれに良心や信念を持っているはずなのに、政治の圧力の前に懐柔あるいは屈服させられるばかりか便乗迎合をも辞さない先輩文学者たちを目撃したのだった。それはいったい何によるだろうか。われわれもまた、鶏が鳴く前に3度主を否む弱さをもつだろうし、またそれを嘆くであろうが、詭弁でそれをごまかしたりはすまい、少なくともそう考えたのである。「生きるべき詩」はそれへの反省と批判から発している。各人それぞれに思想や社会観に微妙な差があるのも、当然「生きる」ということが社会のなかにおける個人の自立の意識と深くかかわるからである。しかしともに言語構築による詩的美の別乾坤を無用のわざとみるのも詩人・文学者としての特権に安座することへの啄木の批判と同様である』と書かれています。なんと格調の高い文章でしょう。
 私は、これを読み「夕映」の中に流れている透明な心情がより鮮明に見えてきたように思いました。それは、三好氏の今までの先輩詩人たちからの学び、反省と批判を重ねた到達点が現れているからです。
 先輩詩人たちの言葉や時流への姿勢から、その限界を考えさせられた結果、新たな詩を試みようと決意したのだと。そのためか、時代性を帯びた絶望的心情や葛藤をあえて詩にしようという使命感さえ伝わってきたのです。三好氏の暗い心情表現には、墜ちていく時代への批判精神が満ちています。氏はそれを自覚的な詩として私たちに伝えたかったのではないでしょうか。「絶望」の詩を表現する三好氏のなかには、個人的な心情吐露や拘泥を超える強い意志と「感情」があったのではないか。「絶望」のための「絶望」ではない「…絶望の根をふかくおろして世界を抱くとき時代の屍灰の上にイマアジュの豊穣と希望は花ひらくであろう」というような、詩を支える「感情」です。
 これは「荒地派」に共通する詩構築への「感情」なのです。
 ここで、この「感情」につながる話を二つご紹介させてください。
一つは、鮎川氏を戦地に送る千駄ヶ谷駅でのことです。周りの人々が鮎川氏を含めた戦地にいく兵士たちに一斉に「万歳」を唱えたそうです。しかし田村隆一氏、三好氏ほか荒地の仲間は誰一人としてその言葉を口にするものはいなかったそうです。唱和しない=沈黙による抵抗だったのではないでしょうか。
 もう一つ。三好氏は『内部の錘』という近代詩人論を書いています。最初に取り上げられているのは萩原朔太郎です。その中で、萩原氏が軍人会議で「…また只今の日支事変も、実にこうした文化的な、自衛の目的からやむを得ず行った戦いでありました。我々の文化の目的とする使命は、もとより絶対の平和主義、王道精神によるものでありまして、決して西洋人の考えるような、好戦的な侵略的な国民性から出てゐるものではないのであります…」という趣旨で時局講演をおこなったことが紹介されています。これに対して三好氏は「防御、 自衛、王道精神、日本の文化的使命、などという言葉は、少しも考え抜かれた内実をもっていない、こういう当時のスローガン、合言葉の類をあたかも内容のあるもののように述べて省みないのは、すでに現実に踊らされている証拠である。このうわついた文章には単にうかつさだけではすまされないものがある」と述べています。戦争中の荒地派は、三好氏をふくめて軍部や詩人たちの「言葉」のひとつひとつをも厳しく見つめ、吟味をし、精神的抵抗を行いながら自分たちの詩を構築していったのです。

6. 自分の詩を批判的に見る詩人とは?

 三好氏は、戦後詩についても、「自己と自己がそのなかにある世界との予定調和を与えられないままに、特権的領域で、言語駆使の特異さを試みるのにとどまっている」と指摘し、「陶酔的な自己表現」への戒めも述べています。
しかしその批判は、他の戦後詩人たちにだけでなく自らの詩についても向けられているのではないでしょうか。
 例えば「夕映」も掲載されている「現代詩文庫 三好豊一郎詩集」の冒頭序文。
「…すべて私のこれらの詩は芸術作品という類ではなく、きわめて個人的な心的記録以上のものではない 著者」と驚くべきことがさらっと書いてあります。
 どうしてわざわざ自分の作品について、「芸術作品」ではなく「心的記録」でしかないと書き加えたのでしょうか。このように自分のことを詩集に書く詩人を他に私は知りません。
 入り口でそう書かれて、読者はどうすればいいのでしょう。「そうですね」とは相槌をうてません。私から見れば、三好氏の戦時中の「心的記録」は「芸術性」を帯びた、真摯な創造の詩なのです。なぜ三好氏はこのような言葉を添えたのでしょうか。詩への謙虚さからなのでしょうか?もっと極めたい世界の側からすれば「芸術」に値しないということでしょうか。
 真意はわかりません。今の私なりの結論はこうです。三好氏は、当時の多くの詩を学び自らの心的機微を映し出す詩的言語の構築を目指しつつも、いまだ芸術にはほど遠く途上にすぎないということを冷静に反省的にみていたのではないか。
 詩集が完成した喜びだけに浸るのではなく、まだ過渡的でしかない一詩人として自分を見ているのです。「詩」への熱のある思いととともに、まだ途上にいる自己を知る謙虚さと、詩の芸術性の領域は想像の及ばないほどの未知の広さがあることを氏は知っているのです。三好氏は「先達詩人に対する私の興味は、詩の発する心中の機微に注がれ、そこにおのずから詩作の人間的意味あいを問うかたちとなった。詩は始終言葉の問題だが、言葉は心の発するところのものであり、詩の生命は言葉と心のかかわりあいに存するからである。」と書いています。三好氏の詩と人間に対する眼差しは常に時代と結びつき、先達詩人へも自分への詩にも問いかけを続けたのでしょう。

7. 果てしない詩への追求

 三好氏は、若いころは西洋のモダニズムの影響から出発し学び、のちに批判や反省をしながら詩作し、人生中盤を過ぎたころ東方の漢詩(陶淵明)にも深く沈潜するようになったのです。若い時はボードレールを原文で読みたくてフランス語に挑戦もし、東方の漢詩を学ぶときは、詩人としての力量を生かし漢詩の試訳もしています。
 また詩の形式についても「自由詩というのは定型韻律に対する自由なリズムの詩という意味なんですが、実際は簡潔な散文に近い形で終わるとことが多い。このため相当内部を引き締めないと、詩がバラバラになっちゃうんですね。ぼくはそれならもっと積極的にいろんな詩形を採り入れる<自由>があってもいいんじゃないかと。俳句や短歌の形をいれて場面転換を図ることを考えてみたんです」などとも語っています。
 三好氏は、年齢を重ねても中国の古典詩人の詩や生き方を、詩形についても定型詩から学び思い巡らせるなど「詩」の世界を不断に追求していったのです。

 今回、思索への追体験の旅をして来ましたが、そこに眠る宝の大きさに私は目を見張りました。三好豊一郎という詩人に、私は出会って本当に良かったと感じます。今ではあまり読まれなくなっているとしたらとても惜しいことです。今回の私の文章で、少しでも光があてられたとしたら嬉しいです。
 ふと列車の窓の外をみると、ため息のでるような神々しい「夕映」の光が目に入りました。
 三好氏を巡る旅、ようやく一つの終着駅に着いたようです。そしてこれからいくつもの終着駅が待っている予感がします。詩の旅路とはそのようなものなのでしょう。

参考文献
「三好豊一郎詩集」 現代詩文庫 37 思潮社
「poetica」 三好豊一郎 追悼集 小沢書店 
「蜉蝣雑録」 小沢書店
「内部の錘」(近代詩人論) 小沢書店

写真
①「蜉蝣雑録」
左:口絵(柘榴) 右:題名(筆字)
②「poetica」三好豊一郎 追悼集より
左:寒山詩・試訳(筆字) 右:晩年写真

© Jurin Ishikawa  石川樹林

▼アーカイブ▼

三好豊一郎の八王子をめぐる旅

  2024.3.16(石川樹林)

      囚人

真夜中 めざめると誰もいない―
犬は驚いて吠えはじめる 不意に
すべての睡眠の高さにとびあがろうと
すべての耳はベッドのなかにある
ベッドは雲の中にある
 
孤独におびえて狂奔する歯
とびあがってはすべり落ちる絶望の声
そのたびに私はベッドから少しずつずり落ちる
 
私の目は壁にうがたれた双ツの孔
夢は机の上で燐光のように凍っている
天には赤く燃える星
地には悲しげに吠える犬
(どこからか かすかに還ってくる木霊)
私はその秘密を知っている
私の心臓の牢屋にもとじこめられた一匹の犬が吠えている
不眠の青ざめたvieの犬が

 戦中、戦後 八王子に生きた詩人・三好豊一郎(1920~1992)。地元、横山町の方が語る「三好さん」。三好氏を知ることで新たに出会う八王子の詩文化。拙い案内ですが、詩と画と歌の旅…ご一緒に歩いていただければ幸いです。
 
 きっかけ

 ご案内の前に、私がなぜ「三好豊一郎」に注目したのかについてご紹介いたします。
最初に三好氏の名前を知ったのは2年ほど前、八王子駅近くの古書店店主からのお話でした。ある詩集を探しているときに「詩人で言うと…三好さん。三好豊一郎もいいよ、ご近所でしたからね、ここにもよく来ていたからね」と気さくにお話をして頂いたことが始まりです。勉強不足でしたので初めて知る名前でした。
 再度、その名前が浮上したのは、昨年、戦後詩講座に向けて準備されていた河津聖恵さんからの発信です。「荒地」派の「三好豊一郎」をご紹介され、高くその詩を評価されていることが伝わってきました。どこか並々ならぬ縁を感じ、詩集を読み、調べていくと、戦中に書いた三好氏の「囚人」という詩が戦後詩誌の「荒地」(1947年)の巻頭に掲げられたということを知り、なんとも言えない衝撃をうけました。このような詩を戦時中に書いていた詩人がいたとは!という驚きです。
 タイトル「囚人」もそうですが、戦時中の絶望的な内面を“比喩”で詩にした詩人が八王子に住み、そして鮎川信夫や田村隆一など多くの仲間たちによって、戦後すぐに詩誌「荒地」に彼の詩が推されたことに、日本にもこのような詩人(たち)がいたのかと新鮮な衝撃を感じたのです。

1 「熱狂」せしめた三好氏の「囚人」

 ちなみに田村隆一は、「太平洋戦争末期に、三好によって産み出された「囚人」「壁」それにあの奇妙な透明体のグロテスクな散文詩評ぐらい戦争から還ってきた僕を熱狂せしめた作品はなかった。ぼくは自らの熱狂にしたがって、生き残った仲間たちとともに、月刊 「荒地」を創刊した…」と書いています。 (『現代詩文庫 三好豊一郎詩集』裏表紙文 )  
 私は、正直なところ三好氏の「囚人」からは、救いようのない重い暗さのみが胸に残ったというのが第一印象でした。しかし「夕映」「希望」「小さな証」の詩を読み進めるうちに詩に流れる純粋な奥深さを感じて、この詩人の秘められた世界をより一層知りたくもなったのです。このようなところから走り始めた私と、戦後の歴史と、そのなかでの詩人たちの魅力を十分に深く現代によみがえらせていただいた河津さんと縁あって「三好豊一郎の八王子をめぐる旅」をご一緒させていただく機会に恵まれたのです。
 
2 八王子の声を聴き、観る旅へ

(1)古本屋店主の語る「三好さん」

   JR八王子駅から出発です。「桑都」と言われながらも、駅を出れば商業ビルが立ち並びその面影は全くありません。駅近くにある昭和の香りのする「佐藤書房」という古本屋へ向かいます。ここの店主は、八王子の文化、出版社、本の仕様等…全てご存じなのではないかというくらいによく勉強もされお仕事をされている方です。
「三好さんは、とても物静かな人だよ。小柄の方かな」「少し笑いもするけどね…でもどこか目が違うんですよ。深く探求している目をもっている」「草野心平さんも紹介してくれてね」「(一緒に詩画集をだした)城所祥さん? 知っているよ。甲州街道の先をいくと家があってね…あの人の作品もいいよ」「三好さんも絵を描くからね。なかでも赤唐辛子の水彩画(文中最後に掲載)は良かったよ。良いのも普通なのもあるけどあれはいい。家に行ったときに本物をみたよ。」「(三好詩や詩論を数多く出版している)小沢書店の発行人の長谷川郁夫もよくここにきてね。あの人は大学在学中に出版社を立ち上げてね。すごい人だよ。自分の好きな詩人の本を出版したいという思いがあってね。いまから三好さんのところに行くと言ってね」「…僕は、三好さんの奥さんに頼まれて追悼の会にも参加しているんですよ。一人では…といわれてね。飯田橋から坂をあがると会館があってね」…店主さんのお話は、三好氏と縁のある方々のその時のご様子を湧き上がる泉のように浮かび上がらせてくれました。私は、お話を伺いながら、私が三好氏の詩を読んだときに感じた直観が実像に重なったように思いました。「物静か」でありながら「探求するような深い目」…やはりそうだったかと。そして今までは知ることのなかった熱のある八王子の詩文化のつながりを感じ取ることができたのです。これは店主の方の語り口が落語のように生き生きとしていたからかもしれません。

(2)老舗呉服店のご主人が語る「三好さん」

   次に、三好さんが長く住まわれていたご自宅のあった横山町へ。古本屋さんから3分ほどの所です。かつて住まわれていたところはパーキングになっています。でもまだ裏通り独特の雰囲気が残るこのあたりでは、「三好さん」を知る方は少なくありません。
  ご近所にある呉服店のご主人もご存じでした。
「三好さん?…もちろん知っていますよ。同じ町内会でしたからね。会合もありましたからね。物静かな人でしたよ。八王子の美術展にも足を運ばれてね…そう、写真もありますよ。美術館でも隅の方で一人静かに椅子の席に座っているような方でしたね」と記念写真も見せて頂きました。町内の方と3人で美術館(画廊)の前で写っています。
   帽子姿にサンダル姿です。ラフな姿ですが、どこか風格があってとてもお洒落なのです。
   ここでも、腰の低いご主人はやはり、古本屋店主と同じく気軽なご近所の親近感をもって「三好さん」と呼ぶのです。微笑むように「三好さん」と。
「物静か」という言葉がお話を聞いた二人に共通する「三好さん」の一番の印象なのです。

(3)「物静か」と「探求の目」のあいだ

   私は、お二人の印象「物静か」でありながらも、店主が付け加えた「目に探求心」という姿は、どちらも実像を率直に言い当てている気がします。それは、田村隆一が最初に三好青年と会った時(1937年、詩の合評会「ル・バル」)の印象と重なります。「テーブルの一隅から、まるで蛤のごとく黙り込んでいた色の浅黒い青年がスックと立ちあがった。『僕は田村君のような詩には、我慢ができない』横眼で女性詩人の顔ばかりみていたぼくは、あわてて、その青年の方を見た、見れば八王子から来たというアンちゃんではないか。『田村君のようなヘナチョコモダニズムは毒にも薬にもならないと思うんです。言葉の遊戯そのものだ…まるで口から出まかせではないか。オートマチズムがきいてあきれるよ、ぼくはこういう詩を心から軽蔑するんだ。まるで人生というものがない。感情の深い洞察力も喚起力も、まるっきり見当たらないではないですか。この田村君は、いったいどんな気持ちで詩を書いているのでしょう。…ぼくは人間の魂の感じられないような詩を断固として排すものであります。』ぼくはなかばあきれながらろうばいし、またさらに驚愕した」(*①)とあります。
 このような三好氏の詩魂は、「深い目」を持たざるを得ないと思うのです。

(4)城所祥の襖絵と三好氏

   次は、三好氏と詩画集「黙示」を作成した版画家・城所祥の作品鑑賞です。
   現在、城所祥の木版画作品は「八王子市夢美術館」に所蔵されています。当日は、あいにく展示はされていなかったので、市民の絵画を鑑賞し城所作品の絵ハガキ等を求めました。次が、いよいよ本物の作品との出会いです。
   城所祥作品の襖絵がある「喜福寺」です。駅からは離れており、浅川を渡り少し高台にあります。趣のある小さな池もある静寂そのもののお寺です。
  入口にも大広間にも白く大きな山百合が飾られ、とても大事にお寺が守られていることがわかります。どなたもお客さんはいません。
   広い仏間へ通された先、襖絵の版画に私は本当に驚きました。国宝級ともいえる作品が普段使いの場所に普通にあるのです。広い二部屋の左右ともに版画です。
   こんなに素晴らしい版画絵が襖絵に!
   八王子をながれる「浅川」の繊細な流れや奔流も、周辺の「宵待ち草」や野草は月の光をうけて輪郭が白く輝いているかのようです。この八王子のお寺にふさわしい自然を描写した版画として見事に襖絵として残されているのでした。なんの仕切りもなく目の前で見るのも当たり前のように。京都なら宣伝もして有料だろうと俗なことも思い浮かびます。
   私たちは、その世界に圧倒されていました。三好氏にも通じる「物静か」で静謐さが漂うのですが、そこに溶け込みつつも見る人を圧倒させるなにかを感じました。
 このような作品が密やかに八王子という町で自然に息づいていることに感嘆します。
欲をいえば、もっと八王子の誇りうる芸術として光があてられていいのではないか、三好氏の詩にも城所氏の版画にも同様の想いを抱きました。
   あっという間に時間が過ぎていきます。帰り道の「八王子駅」行きのバスの中、車窓からは広い浅川の先に山々が見えました。やわらかな薄いオレンジ色の夕映えに包まれていたのです。三好氏はこの陽が落ちる景色をみながら鬱屈とした心情を「夕映」の詩に託していったのでしょう。その詩から80年後の空。三好氏は二人の旅に驚かれ喜んでくれたのでしょうか。なぜか前々からこの小さな二人旅を知り、迎える準備をして詩の空になり声になり届けてくれたのではないか…そう思わずにはいられないような、忘れられない豊穣な旅となりました。八王子の景色は空と詩と画の溶け合った町になっていったのです。

3 三好詩と八王子のつながりを辿る

 今回の旅は私にいつまでも消えることのない余韻を残しました。そして三好氏と八王子とのつながりをさらに深堀りしたくなったのです。一端をご紹介します。
 彼は1920年、八王子の横山町生まれです。関東大震災を経験し、戦中は胸部疾患もあり徴兵検査を丙種合格。(同郷詩人・難波律郎は「三好は自らの意思で病み、兵役をのがれるが、深酒と極端な減食による肉体破壊の代償は終生彼についてまわることになった」と書いています。*①)その後、詩友の仲間たちも次々と召集され、戦死者もでます。
 1945年には八王子空襲により生家を焼失…そして終戦。常に「死」が目の前にあり未来は考えられず死の匂いを嗅ぎ、閉塞感、喪失感、放心のなかで青春時代を生きています。
 生活人としてみれば、夜学(早稲田専門学校政治経済学科)に通うかたわら昼間は牛込区役所で働き、また戦後は、中央線で八王子から荻窪に通い「鉄道工場」という雑誌の校正の仕事もしていたそうです。安い給料ながらその働きぶりは「まじめで固い人」だったと同僚が話しています。荻窪では近くに住む年下の大岡信の家に寄り交流もあったそうです。
 また、三好氏の詩の歩みを調べますと、戦前より八王子には小川富五郎氏(三好氏より15歳上)を中心に「一大文化サロン」があり「蝶」「故園」という詩誌も出版していて三好氏も参加しています。(「故園」は、難波律郎と三好氏で編集・刊行し発行者は小川豊五郎。鮎川信夫の「橋上の人」の初出掲載や田村隆一も寄稿。*②)三好氏は、既に10代前半から小川宅へ訪ねていたとのことですし20歳以降は難波律郎を誘い小川宅へいき深夜まで話し込んでいたそうです。小川豊五郎が既に半失明であり、三好氏は彼のために多くの本を読んであげていたとのことです。こうした小川宅で詩(ボードレール、ランボオ、ロートレアモン等)を学び、文学的談議の積み重ねた結果が「三好豊一郎の詩才を開花させ詩人への準備をした場」(*②)となったのでしょう。この小川氏(筆名 青山鶏一)は、東洋大学の支那哲学科を出て「詩篇」「新風土」の同人となっています。「人生派に近いような詩人」(*③)であったということですから、三好氏が田村氏に猛然といどんだ「詩に人生論がない」と批判したあたりは小川氏から学んだものが大きいのでしょう。
ちなみに小川豊五郎氏の名前は、全国的にも知られていたようで戦後、小川氏にあこがれ八王子に転居してきた青年もいるほどです。門間久男(秋田出身)です。彼は国鉄職員になったものの人員整理で解雇(1949年)され、その数年後には希望の八王子に転居。三好氏とも詩的交流をしています。彼は、のちに八王子市職員となり中学校の用務員でありながら文芸部の顧問をしていて「門間先生」と言われていた時期もあります。
 八王子の「一大文化サロン」は、三好豊一郎を生む母体ともなり、また才ある青年に転居を促すほどの影響力があったのでしょう。あまり知られていませんが八王子の詩文化のエネルギーの高さや広さを象徴しているといえましょう。
 
4  私の中の三好詩について

 こうした詩文化の歴史を知ると、三好詩の魅力を引き出し後押しした素地が八王子の詩のグループにあったと思うにいたります。その磨きの上で、戦後詩を先導した「囚人」の詩が生まれたのでしょう。日本の戦後詩の歴史の中でも重要な位置を占める詩といわれたのは、私は、戦中においても抒情的で美的な愛国詩にも傾かず、戦後も解放を喜ぶ詩へも向かうことのなかった三好氏の心…その秘密が暗喩の言葉の中に刻まれているからではないかと思います。「囚人」のなかの「真夜中」「孤独」「絶望」「不眠」「蒼ざめたvieの犬」という暗鬱な単語ひとつひとつでさえも、従来の美文的な情緒的な詩をひっくりかえすほどの痛切なインパクトを与えたことは想像に難くありません。
 心落ち着かせる詩でもなく、辛くなるほどの緊張感のある詩。しかしだからこそ戦争での絶望を経験した詩人たちの内にあった心の扉を開かせ、「熱狂」(田村隆一)的な共感を呼び起こしたのでしょう。これは三好氏ならではの「物静かな」内省的な力と、当時の様々な考え方の中にも、自らの立ち位置をたもとうとする思考的な歩みに裏付けされているのかもしれません。読み進めると三好氏が若い時から、フランス文学、ロシア文学、ドイツ哲学など多方面にわたり対話的に悩み考えていたこともわかります。自らの人生を積み重ねる中で、必然的に達せられた詩表現の深みなのかもしれないと思います。まだ力量不足でつかみえないものを感じつつも、私には、作品の底に流れる世界は透明感を失わずに時代の影にある内面的な「絶望」にもむき合って詩表現にできる真摯な詩人であると思えるのです。
 
 その「絶望」についての詩をご紹介し、この旅をそろそろ終わりにしようと思います。
「絶望は盲目の世界に対して、みずからの存在を意思すべき人間的抗議の一形式である。絶望の根を深くおろして世界を抱くとき 時代の屍灰の上にイマアジュの豊穣と希望は花ひらくであろう」(*④ 未完詩篇より)
 どこか詩情と哲学が絹糸のように美しく張り詰めたような光の言葉です。
 今も続く「絶望」の時代。それを「人間的抗議」という精神の位置に高めた詩に私は深くうなずきました。そしてこれを読んだときに、「囚人」の詩も、絶望だけの内面的心情にとどまらない時代への深い意味もあったのではないか…と想像せずにはいられませんでした。
 
 窓を開ければ、八王子の山々が続き、なぜか歌がハーモニーとなって運ばれてきました。なんと歌っているのでしょう。八王子の情景とともに「…ああこの丘の学び舎に /築くいしずえ意気と熱/めぐる時代のあらなみに/拓こう未来を若人われら」「磨きはぐくむ知恵と夢/あらき社会の陶土に/創ろう文化を若人われら」「…かかぐゆたかな信と愛/永遠の世界の平安に/あわそう力を若人われら」と聞こえてきます。この若人を励ますような歌詞は、なんと三好氏の作詞なのです。八王子市内の都立高校の校歌です。
「囚人」の詩から「永遠の世界の平安」に「あわそう力を」という歌詞へ。
 私は歌を聴きながらどこか三好豊一郎の詩が今も生きていて、励ましを与えていることにほっとしたのかもしれません。まだつかみえないものがありつつも、未来へ続こうとするこの窓を大きく開いたまま、この旅をひとまず終えようと思います。
 
 あらためて、今回、三好豊一郎を知るきっかけと旅を、そして初執筆を促してくれた河津聖恵さん、そしてお忙しい中、お話を聞かせていただいた八王子の方々、資料提供していただいた青木由弥子様にもこの場をかりて心からお礼申し上げます。
 

〈三好豊一郎〉
主な著書:
詩集「囚人」「小さな証し」「三好豊一郎詩集」「夏の淵」「林中感懐」他   
詩画集「黙示」(城所祥版画および製本発行)
詩論集「蜉蝣雑録」「内部の錘」他 児童書もあり
校歌の作詞:
八王子市内の都立高校、八王子市立打越中学校、あきる野市立西秋留小学校、江戸川学園取手中・高(校歌・応援歌、茨城県) 
 
主な参考文献など:
*①小沢書店 POETICA 追悼・三好豊一郎 第9号
*②宮崎真素美氏による三好氏と八王子詩文化に関する研究誌
*③現代詩手帖(1972年 臨時増刊)「荒地」特集 
*④現代詩文庫 37 三好豊一郎詩集 


写真:詩集「林中感懐」(本扉) 三好豊一郎・筆字と水彩画(赤唐辛子)
(城所祥・木版画襖絵(浅川、喜福寺所蔵)はアーカイブでは割愛しました。)

© Jurin Ishikawa  石川樹林

  • Link
  • blog
  • Twitter
  • こちらのパーツは項目ごとにリンク設定が可能です。

powered by crayon(クレヨン)