黒田喜夫「人形へのセレナーデ」

2024.3.25(河津聖恵)

人形へのセレナーデ


小さな箱に人形がいた
箱から見ていたガラスの目で
箱の外は夜の部屋だ
夜の部屋からチェロが見ていた
黙り込んで窓の外を見ていた

窓の外には何があるのか
チェロが振り返ってそれをいう
夜の部屋で人形にいう
人形よ 窓の外にも夜がある
けれども夜と共に世界がある
夜と世界のことをきみに話そう

それから言葉ではなくチェロはうたった
チェロは沈黙のあとの夜の唄を
夜と世界が見えるものの苦しみの唄を
人形よ きみの応えを聴くまで
小さな箱のなかの
ガラスのガラスの人形の目に

 この詩を初めて読んだのは2015年秋。場所は親戚を訪ねて立ち寄った、詩人の故郷である山形県寒河江市の、駅前にあるホテルの部屋です。
 寒河江を訪れたのは2度目でした。じつは私は今述べたように寒河江に親族がいます。と言ってもその方と初めてお目にかかったのはそのほんの数年前のことで、それが最初の訪問でした。寒河江が黒田の故郷であると意識しながら彼の詩を読み始めたのは、もう一度訪れようと考えてからでした。
 もちろん黒田の詩は以前から知っていましたが、それらを故郷と結びつけて読むことはなかったと思います。しかし寒河江の町を黒田の故郷として意識し、2度目の訪問でゆかりの場所を歩き回ってからは、黒田を読む時はいつもどこか、空の広さ、豊かな自然、そして最上川の煌めきの記憶が脳裏をよぎるようになりました。

 前置きが長くなりました。では冒頭の詩について語りたいと思います。これは「音楽家の友への五つの詩」と題する連作の、2番目に位置する詩です。
 黒田の詩でよく知られているのは「燃えるキリン」「毒虫飼育」「ハンガリヤの笑い」などでしょう。それらの詩には共通の特徴があります。それは、イメージが語り手の内面と連動して変化し、詩の全体が流動していくこと。語り手は流動のただなかで恐怖し、その恐怖は膨れ上がり、詩は思いがけない方向に引き裂かれていきます。また詩には様々な要素が混淆します。単純化すれば無意識性、時事性、土着性、抒情性など。また自他がいつしか入れ替わるシュールレアリズムの手法と、現実全体が幻想へと大胆に反転していく展開も特徴です。そのように黒田の主たる詩は、創造と破壊という正反対の力によってみずからを揺さぶるのです。
 しかしこの「人形へのセレナーデ」は対照的にとても静かな詩です。流動性の不安や激しさはありません。時空の変化も殆どありません。登場人物であるチェロは、対象である人形との距離を縮めず、語り手も孤独なチェロに共感しながら、チェロに憑依しません。ここでは内面も含めて動くものはないのです。語り手とチェロの静かな独白だけが、時に交替しながら詩を満たしていきます。
 連作のタイトル「音楽家の友への五つの詩」にある「音楽家」とは、各篇に登場し、語り手から「きみ」と呼びかけられる人物たちです。チェロは「きみ」と呼びかけられませんが(人形はチェロに「きみ」と呼びかけられますが)、「彼」もまた「音楽家」の一人です。しかし他の4人と大きく違う点があります。
 じつは他の4人の音楽家はみな詩の結末で悲惨な自死を遂げるのです。作者のタナトスあるいは身近な自死者への哀悼がそこに投影あるいは浸透しているのでしょう。高所から投身する「楽団のない若い指揮者」、みずから肩の上に高く積んだ煉瓦が崩れ圧死する「ピアニスト」、「マヤコフスキーの短銃で金属の苦悩を砕く」「ギター弾き」、「崩れおちる交響曲」を「ただ一度の生の音」で断ち切る「シンバルを叩いた人」ー。詩は生から死へ激しく展開します。しかしこのチェロが自らを破壊することはありませんし、そもそも物理的に出来ないのです。もしチェロに弓があればそれも可能かも知れませんが、この詩に弓の存在はどこにも描かれません。
 もし他の4人の「音楽家」と同様に、チェロにも自分を壊すことが出来る力があれば、そうしたかも知れません。なぜならチェロは4人と同様に、孤独と無理解に苦しんでいるからです。「夜と世界が見えるもの」である苦しみと、その苦しみを誰とも語り合うことのできない孤独の闇に独白は取り巻かれています。そんなチェロもまた言葉に絶望している。しかし他の4人と違うのは、チェロはみずからの身体で(たとえ音は聞こえなくても)鳴動する=うたうことが出来るという点です(「それから言葉ではなくチェロはうたった」)。さらにチェロは本当には孤独ではありません。耳を傾ける者は誰もいなくても、ガラスの箱の中のガラスの目を持つ人形がいつもそばにいます。向き合い見つめ合うことは出来なくても。チェロだけが覚醒し、人形は無機物のままであっても。しかし人形は本当に無機物でしかないのでしょうか。時にどこかから差し込むヘッドライトの光によって目が光るとき、生きているようにも思えるのではないでしょうか。その一瞬、チェロの孤独は癒されるのではないでしょうか。
 今はまだ無機物でしかない人形が、自分のうたの力によっていつか心を持ち、応えてくれる時がきっと来るーチェロはそう信じているのではないでしょうか。だから忍耐強く「夜と世界が見えるものの苦しみの唄」をうたい続けます。その無償の意志に、私は詩人というものの純粋な姿を見る思いがします。
 他の4篇の「音楽家」のように、チェロは作者のタナトスによって突き動かされることはないのです。人形が無機物であり続け、「夜と世界が見えるものの苦しみの唄」に応える兆しが今はなくても絶望はしていない。そのことはこの詩の雰囲気からも感じ取れます。深い夜の片隅で見えない物質的な輝きと、聞こえない重層的な弦の響きを密かに増すチェロは、人間には感受出来ない人形の命の気配、不思議な鼓動を聴き取っているのではないでしょうか。詩の最終行「ガラスのガラスの人形の目に」の、「ガラスの」という畳句に私はそれを感じるのです。なぜ2回繰り返すのか。それは箱と人形の目の二つにガラスが使われているからでもあるだろうし、「セレナーデ」としての音楽的印象を持たせようとしているからでもあるでしょう。しかしそれ以上に、美しいガラスの目を持つ人形へのチェロの恋心を表現しているのではないでしょうか。ちなみにセレナーデとは、愛する女性に向かって、夜に男性がリュートなどの弦楽器を窓下などで奏でながら歌う楽曲のこと。男性であるチェロは、女性である人形に叶わぬ恋をしているのです。
 さらに言えばチェロの聞こえない恋唄は、未知の連帯を呼びかける歌でもあるのではないでしょうか。黒田の真の理解者だった谷川雁は1958年「連帯を求めて孤立を恐れず」という名言を書き記しました(「工作者の死体に萌えるもの」)。これは60年安保への反対運動を経て後の全共闘運動の中で新左翼の合言葉のように流布されていきます。ちょうど同じ1958年にこの「人形へのセレナーデ」も書かれたようなのです。正確な制作年月日は不明ですが、この作品を収めた詩集『不安と遊撃』は1959年12月刊であり、『黒田喜夫全詩』の年譜によれば、この詩集の「中心的作品」は結核が再発した1958年から59年にかけて書かれたそうです。そのような事実を考え合わせてみると、チェロが窓の外に見ていた世界が見えてくるようです。詩人は1960年4月大手術を受け、8月には危篤状態に陥ります。しかしそのような絶望的な健康状態において、群衆が取り巻く国会前の騒然とした空気を、病室の暗がりで横臥の身に遥かに感受していました(そのように黒田自身が書いていたのを日録で読んだことがあります)。未知の連帯が生まれつつあることへの希望と、そこに参加出来ない焦燥感とのはざまで、詩人の魂は密かに、「夜と世界」に向かって鳴動していたのでしょう。まさにこのチェロのように。そしてガラスのガラスの未来にいる者たちの応えを、詩の中で今も待っていると思えてなりません。

写真上:寒河江(2015)
写真下:黒田喜夫『不安と遊撃』(1959)

©️Kiyoe Kawazu  河津 聖恵

▼アーカイブ▼

2024.1.27                     尹東柱「序詩」


死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥じ入ることもないことを
葉あいにおきる風にすら
私は思いわずらった。
星を歌う心で
すべての絶え入るものをいとおしまねば
そして私に与えられた道を
歩いていかねば。

今夜も星が 風にかすれて泣いている。
            1941.11.20
             (金時鐘訳)

 もうすぐ2月です。毎年この月になると、季節が見えないところで大きく動く感覚をおぼえます。まだ冷たい風の中にもふと春を思わせる明るい日差しが差し込んだりすることも増えていきます。冬でも春でもない季節のエアポケットとでも言えるでしょうか。不思議な透明な空気の中で、木々の梢が光りだしているのに気づきます。
 けれど月の半ばくらいに余寒というのか、急に冷え込む事があり、その寒さは寒がりの私には妙にこたえるものがあります。そんな2月の初めから半ばにかけて、寒さと共におのずと思い出されてくるのが、戦前、当時植民地下の朝鮮から日本に渡航し、京都の大学で英文学を学んでいるさなかに治安維持法違反で逮捕され、解放直前の1945年2月16日に旧福岡刑務所の独房で獄死した詩人、尹東柱です。
 尹の略歴は以下のようです。

「1917年12月30日、北間島(プッカンド、現・中国吉林省延辺朝鮮族自治州)・明東(ミョンドン)村生れ。ソウルの延禧(ヨニ)専門学校を卒業後、1942年 日本へ渡航。43年同志社大学英文科に在学中、治安維持法違反で逮捕され、解放直前の45年2月16日、福岡刑務所で獄死する。没後刊行された『空と風と星と詩』は、韓国でロングセラー。同志社大学と京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)に詩碑がある。享年27歳。」(河津聖恵『闇より黒い光のうたを』藤原書店より。)

    私は2007年頃、金時鐘さんの訳の『空と風と星と詩』を読んで初めて尹東柱の詩世界を知りました。冒頭に全文引用した「序詩」は、その巻頭作です。短い詩ですが、詩集の表題作ということもあり、韓国でも日本でも、尹東柱の代表作として知られている作品だと思います。
 この「序詩」が書かれた背景ですが、詩の末尾の恐らく脱稿日である「1941.11.20」という日付がヒントになります。この頃、植民地下朝鮮では朝鮮民族にとって以下のような苛酷な政策が次々と実施・公布されていきました。

 1940年創氏改名実施、1941年治安維持法改訂、朝鮮思想犯予防拘禁令公布、朝鮮語教育全面禁止。(これ以前にもこれ以後も祖国解放まで暴力的な同化政策が続きます。)

『空と風と星と詩』は延禧専門学校の卒業記念に出版しようとした詩集です。ですが上記のような状況下でハングルでの出版がもはや危険となったため、尹は刊行を諦めます。その代わりに日本へ渡航する前に手書きの原稿でこの詩集を3部作り、1冊は自分の手元に、2冊を友人と教師に託しました。解放後友人が隠し持っていた1冊がこの世に現れ、初めて尹東柱の詩は知られ広く読まれるようになっていきます。その理由は、大きくは非業の詩人の生涯が多くの人の琴線に触れたからですが、どの詩からも心の純粋さ、イメージの美しさが感じ取れ、さらには平易で親しみやすい朝鮮語で書かれていたからでもあります。
 私自身、韓国・朝鮮語の学習を何度やり直しても初歩でつまづいてしまい、今に至るのですが、じつはこの「序詩」だけは曲がりなりにも原語で暗誦出来ます。それだけリズムも語感も、伝わりやすいように考え抜かれた詩なのでしょう。そのようにこの詩の語の多くは簡単な単語ですが、内容は上記の背景も踏まえて考えればじつは多義的です。簡単な単語はじつは暗喩なのです。「空」も「星」も「風」も、当時の時代の闇に相対する尹自身の命のありようを映し出しているのですから。「私」という主語は書き入れられてはいますが、この詩に尹東柱という主体はとても希薄です。何か木々のざわめきや星のふるえる光そのものが、尹東柱自身であるかのように感じられます。

 星を歌う心で
 すべての絶え入るものをいとおしまねば
 そして私に与えられた道を
 歩いていかねば。

という4行がこの詩の絶唱部分です。しかし意志のつよさというより、何か触れれば壊れそうな緊張感を感じます。また私がここで一番気になったのは、「絶え入る」という動詞です。直訳すれば「死ぬ」ですが、私は金時鐘さんが選んだ「絶え入る」という古風な訳語に、「絶滅する」が重なるように思えてなりません。つまり朝鮮民族の、さらには人類の絶滅の予感がそこにはあるのではないでしょうか。もしそうだとすると尹は「死ぬ日まで」という冒頭の言葉を、これから日本へ渡航する自分の死(尹は生体実験で殺されたという説もあります)、さらには21世紀になってもなお続く戦争による無数の犠牲者の死を、遥かに見据え、この「死ぬ」を書き付けたのかも知れません。
 この詩の主体が希薄だと書きましたが、それは、この「絶え入るもの」の中に、それをいとおしむ尹自身が含まれるからなのかも知れません。誰もいない時空に「私に与えられた道」だけが、宿命として純白に浮かびあがっています。そして木々の掠れる音に気づくともう夜です。見上げるための間合いを取るようにして、一行の空白を開けて、詩はこう結ばれます。

 今夜も星が 風にかすれて泣いている。

 この詩の結びで、希望と絶望が打ち消しあったように主体はきれいに消されているのです。木々の音も静まり、存在するのは、夜空の闇に埋もれかけてちらつく小さな星だけ。ところでこの「泣いている」という訳語は、金時鐘さん訳に独特のものです。伊吹郷さんの訳では「ふきさらされる」となっていて、これが一番原語に忠実と思われますが、金さんの訳は、「ふきさらされる」を暗喩と見て、そこに仮託された尹の悲しみをストレートに訳語に反映したのです。
 金さん訳は、他の方の訳に比べて情緒的なのですが、それは恐らく19歳で4.3事件から日本に逃れて来た金さん自身の辛い記憶を重ねてのことでしょう。訳語の適不適は私などには不明ですが、数ある訳者の中でこの「序詩」を暗喩として、本当に理解、実感するのは金時鐘さんだけなのかも知れません。

 生前に出版されることのなかった『空と風と星と詩』に収められた各篇の末尾には、脱稿日と見られる日付が記されています。母国語と文化を奪われ、さらには名前も奪われる(尹は「序詩」を書いた直後に、「平沼」と創氏します)暗黒の時代に、それでも密かに詩を書くことを諦めないことで、「一点の恥じ入ることも」なく生きた証としての日付です。
 ところでこの詩を読んでも分かるように、尹は決して政治的で反日的な詩人ではありませんでした。また朝鮮の詩人だけでなく日本の立原道造や北原白秋や四季派を愛した抒情詩人でした。何よりもリルケは、『空と風と星と詩』の掉尾を飾る詩「星をかぞえる夜」に名前が出て来ます。真実の詩を求めて欧州各地を放浪したリルケ。彼は尹の理想とする詩人だったのだと思います。そのようにただリルケのように生きようとして日本の大学に(英)文学を学びに来た抒情詩人が、なぜ殺されなければならなかったのでしょうか。ある夏の日緑ゆたかな散歩道で、独立運動家の従兄弟と朝鮮語で話していたというだけで、治安維持法違反で逮捕されてしまいました。そして下鴨署で日本に来てから書いたハングルの詩を証拠書類として、尋問を受けつづけたあとで、福岡刑務所の独房に収監され、とても寒い夜に亡くなりました。
 亡くなる直前、尹東柱は独房で叫びを一言上げたといいます。その意味は恐らく朝鮮語だったのでしょう。看取った看守にも意味が分かりませんでした。また、下鴨署の訊問の際に証拠書類として堆く積まれていた詩稿も、敗戦の際に燃やされたといいます。しかし闇に葬られたそれらの言葉は本当にもうどこにもないのでしょうか。私にはこの短い「序詩」の夜空が、それらを見えない星として今も胚胎しているように思えてなりません。
「序詩」を何度も繰り返し読みたい。詩の中の夜空で、ふるえる星が語りかけてくるものをいつか聞き分けたい。この小さな詩は、尹東柱への永遠の旅の入口なのです。

©️Kiyoe Kawazu  河津 聖恵

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