楠田一郎「黒い歌」①

2024.11.2(河津聖恵)


河は埋もれた
そして夢は消えた
太陽は大地を裂き
女は引金を引いた
兵士は見事に射殺された
世界が狂ひ
美しいと云われた花も
風の中でわめきはじめた

 戦前のシュルレアリスム(と一般に分類される)詩人、楠田一郎(1911〜1938)の「黒い歌II」の一節です。末尾の2行「美しいと云われた花も/風の中でわめきはじめた」は連作「黒い歌」が紹介される時、引用されることが多いので、どこかで目にした方もいるかと思います。じっさい私自身も昨年、必要もあって戦後直後に出された鮎川信夫らの詩誌『荒地』(復刻版)に目を通す中で、同誌2号に掲載された「黒い歌」と初めて出会い、とりわけこの2行に不思議に深く心を打たれたのでした。ただそこに載っていたのは「黒い歌」の抄録です(後に出た『荒地詩集』の別冊である『詩と詩論』第一集には、全文が掲載されています)。それは「I」を省き、いきなり「II」の上記引用箇所から始まっています。私が末尾の2行につよい印象を受けたのも、この抄録の構成のせいもあるでしょう。やがてこの詩が書かれた時代背景と、作者自身の状況とその時代への思いを知っていくにつれ、「美しい」以外形容詞もなくシンプルなこの一節は、外部の事物と事実が作者の想像力でたわめられた、もう一つの現実として視えてきました。それは作者のモノクロの内面世界です。けれど自身が感受した世界の危機をかたどろうと現実を変形させているという意味で、超現実主義、つまりシュルレアリスムの詩であると言ってもよいでしょう。もちろんフランスのシュルレアリスムのような大胆な自動記述はなく、イメージの展開はあくまで理詰めです。しかしそれだけにむしろうったえてくるものがあります。世界の狂いと共に風の中でわめきだした花は、世界の終末を無声に激しく暗示する印象を与えます。

 戦前すぐれた詩と詩論を書きながら、1938年に28歳で亡くなったこの詩人には生前一冊も詩集はありませんでした。今彼の詩を読もうとすれば、古書で『楠田一郎詩集』(蜘蛛出版社、以後『詩集』)を入手するか、その詩の一部を収めたり引用したりした本に頼るしかありません。『詩集』所収の飯島耕一の文によれば、亡くなってからほぼ40年後、飯島、君本昌久、鶴岡善久の3人が協力しあい、遺族を探し出し遺稿を収集・編集したとのことです。当初、雑談の中で出た話が、実現していったのですが、楠田よりも一回り下の世代の詩人たちが、亡くなってから約40年も経つ詩人の詩をまとめようと意気投合したわけです。三人は実際楠田と面識はなかったのですが、戦前に読んで惹かれた彼の詩をまとめた形で読んでみたい、さらには世に知らしめたいというつよい思いが、ずっと潜在していたのでしょう。それほど、三人にとって忘れがたい何かが楠田の詩にはあったのです。
 ところで楠田一郎とはどのような詩人なのでしょう。『詩集』所収の鶴岡善久氏の「解説」をかいつまんで紹介します。

明治44(1911)年10月7日、熊本にて生まれる。この年に父は朝鮮にて農場経営のため渡鮮している。それゆえ一郎は幼年期を朝鮮の釜山で過ごす。釜山の尋常小学校、公立中学校を卒業後、昭和4(1929)年早稲田大学第二高等学院入学、ボードレールなどを読む。昭和6(1931)年早稲田大学文学部入学。当初は国文科だったが、その後吉江喬松、西条八十らの教授に憧れ、仏文科に転科。だが転科後、肺結核を発病。少なくとも一年休学し、昭和11(1936)年同大学卒業。詩作は「大学入学後まもなく開始されたらしく、すでに昭和8年には二、三の雑誌に詩を発表している。詩作は昭和13年の死亡の直前まで続けられ、詩および翻訳を、「カイエ」、「エチュード」、「ヴァリエテ」、「20世紀」、「新領土」、「詩法」などの諸雑誌に発表している。」大学在学中の結核は、昭和9年頃サナトリウムで入院加療し、回復に向かいます。回復後、前述のように昭和11年大学を卒業しますが、翌12年頃から「肺結核が再発したため東京での生活を切りあげ、朝鮮釜山の実家にもどっている。楠田一郎はそこで療養しながら詩作をつづけた。」だが「実家での療養にもかかわらず楠田一郎の病状は徐々に悪化し、昭13(1938)年12月27日釜山の実家にて死去。

   上の略歴中、フランス文学に憧れて詩作を始める、というのは、当時の文学青年には決して珍しくない過程だと思います。この詩人の生涯に特異なのは、生まれた直後から20歳頃までと、死ぬ前の2年間ほどを朝鮮で過ごしたことです。この1911年から1938年、日本が朝鮮半島でどのような植民地主義による支配を強化していったかは、周知のとおりです。1919年に朝鮮全土に広がった独立運動は釜山でも激しかったのではないでしょうか。そこで起こった民衆のデモを日本の憲兵が取り締まるということがあったのではないか。一郎の通っていた釜山の尋常小学校は日本の学校ですから、民衆の抗議の声が向けられたとしてもおかしくありません。例えば何も起こらなくとも、感受性のつよかったであろう一人の小学生の五感は、何気ない日常の空気に伝わってくる、ピリピリとした緊張感と危機感を鋭く感じ取っていたはずです。
 そして晩年の2年間の1937年から38年は、日中戦争の開始と共に、朝鮮半島での植民地主義の暴力は激しさを増していた時期です。自らの死の予感と時代の闇の深まりが刻々と重なり合う危機感の下で、死ぬ直前まで続けられたという詩作は、まさに絶望から希望を創造する行為だったでしょう。「黒い歌I〜Ⅷ」は昭和12(1937)年10月号から昭和13(1938)年7月号までの「新領土」に掲載されましたが、まさに日中戦争の始まりにおいて、詩人はみずからの意識無意識が覚えた戦慄を、むしろ詩の動力として、日々弱りゆく身体に鞭打ったのです。「黒い歌」は狂った世界におのれの実存を詩的に対峙させることで生まれた、まさに命のシュルレアリスムの表現だと言えるでしょう。そしてこの連作がうったえる危機感は、過去にそして現在において、作者が目の当たりにした現実を素材にして鮮烈にかたどられています。そして「黒い歌」の危機のイメージは戦後、「荒地」の詩人たちに新たなイメージを触発して引き継がれていきました。
 なお、父親は農場経営のかたわら、朝鮮におけるカトリック史の研究に没頭して本も出したとのことですが、仏文で書かれた文献をしばしば一郎に翻訳してもらっていたそうです。一郎自身はキリスト教には入信していなかったそうですが、葬儀は「釜山メソジスト教会」で行われたとのことです。
 できることならば今後しばらく、この「黒い歌」や初期のモダニズムの詩を見ていけたら。その際、上記2点、つまり朝鮮で幼少期と晩年を過ごしたことと、彼の地のキリスト教の歴史と接したという事実からも、光を当てられたら。楠田はもちろん、上記の三人とも面識のない私ですが、世界の危機を日々直接に突きつけられているのは、本当は同じなのです。

 黒い歌 I

孔雀のやうに羽をひろげて
橋の下を
棄てられた花束のやうに
溺死体がいくつとなく流されてゆく
空には架空の花が咲き
天使の夢やボール紙の悲しみが
智識人の太陽やアナルシイが
大戦時代の
マルク紙幣のやうに膨張する
灰色ーー死が快感をひき起す
徒刑場のお祭り騒ぎには
なにか美しい本質がひそんでゐた
死屍が横たはり
木の影で墓屋が睡つてゐた
鳥が射殺されてそのまヽ腐つた

    おなじく※

眠つてゐたーー一羽の鳥が啼いた
かぐはしい沐浴の中で美しい男が自殺した
風のない森蔭を歩き
雲のやうな夢に埋れ
世界が哄笑し
死があらゆるものの上から覗き
小径にかくれた夜を太陽の如く
待つてゐた
そして黄色い大河の上で
血まみれた青天白日旗のやうに
夕ぐれがわめきはじめたときーー
よごれたジャンク船とともに
もの悲しい歌の消えるところ
永遠の火が破壊の風にあふられて……                          (全文)

※この「おなじく」のポイントは視覚的な意図で、原文ではかなり大きい。

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2024.7.9(河津聖恵)        渋沢孝輔「水晶狂い」


ついに水晶狂いだ
死と愛とをともにつらぬいて
どんな透明な狂気が
来たりつつある水晶を生きようとしているのか
痛いきらめき
ひとつの叫びがいま滑りおち無に入ってゆく
無はかれの怯懦が構えた檻
巌に花 しずかな狂い
ひとつの叫びがいま
だれにも発音されたことのない氷草の周辺を
誕生と出会いの肉に変えている
物狂いも思う筋目の
あれば 巌に花 しずかな狂い
そしてついにゼロもなく
群りよせる水晶凝視だ 深みにひかる
この譬喩の渦状星雲は
かつてもいまもおそるべき明晰なスピードで
発熱 混沌 金輪の際を旋回し
否定しているそれが出逢い
それが誕生か
痛烈な断崖よ とつぜんの傾きと取り除けられた空が
鏡の呪縛をうち捨てられた岬で破り引き揚げられた幻影の
太陽が暴力的に岩を犯しているあちらこちらで
ようやく 結晶の形を変える数多くの水晶たち
わたしにはそう見える なぜなら 一人の夭折者と
わたしとの絆を奪いとることがだれにもできないように
いまここのこの暗い淵で慟哭している
未生の言葉の意味を否定することはだれにもできない
痛いきらめき 巌に花もあり そして
来たりつつある網目の世界の 臨界角の
死と愛とをともにつらぬいて
明晰でしずかな狂いだ 水晶狂いだ

  この詩を初めて目にしたのは、大学生のころ。『現代詩文庫42・渋沢孝輔詩集』(思潮社)の中で出会いました。私が学生の頃の80年代初頭には、渋沢氏の単行本の詩集は何冊も出ており、この詩を収めた『漆あるいは水晶狂い』(同)もすでに1969年に上梓されていました。当時詩集は高価で手が届かなかったのです。その後逝去後に出た『渋沢孝輔全詩集』は入手しましたが『漆あるいは水晶狂い』の単行本は、今にいたるまで依然として幻の詩集です。
 いずれにしても最初この詩は衝撃的でした。その衝撃がどのようなものなのかはっきりしないまま、長い歳月が過ぎましたが、今あらためて読んでみてもやはり衝撃を受けます。ただ、最初読んだ時感じたような歯の立たない難解さはありません。歳月のなせるわざか、それほど難解な詩ではないと今は感じます。
 今感じるのは、ここにあるのはただ、詩を書く誰しもが本当は知っているはずの、詩を書くさなかに生起する痛切な思いだ、ということ。それを率直に純粋にうたいあげようとしているだけなのだと。詩作の痛みを、読む者の中に覚醒させ、励まそうとしているのではないでしょうか。このような詩を今目にすると、奇跡のように思えます。
 特に冒頭4行は印象的です。

“ついに水晶狂いだ
死と愛とをともにつらぬいて
どんな透明な狂気が
来たりつつある水晶を生きようとしているのか”

「ついに」というとうとつな始まり。どうして「ついに」なのでしょうか。そう書き記すまでに「わたし」が耐えに耐えていたもの、迷いに迷っていたものは、何なのでしょうか。
 答えは、以下の文章の中にあるでしょう。

「自分以外のいかなるものによっても犯されることのない、独自の言葉などというものが果してどこにあるだろうか。すべてはいわれていないまでもそれをいった途端に不本意にもたちまちなにものか邪悪な意図を秘めたものに占有されてしまうだろうという思いのなかで、なおかつそれを求めはじめると、中心の定まらぬ彷徨の感じか、空白の増大か、さもなければ見えないものの不意の充溢による物狂おしさのようなものばかりが胸につかえて、なかなか言葉は出てこない。」(「往路と還路」)

 一見込み入った文章に思えますが、よく読めば決してそうではありません。詩作を純粋に語ろうとすれば、錯綜して見えるのは必然でしょう。
 作品とこの詩論は照応しています。
「中心の定まらぬ彷徨の感じか、空白の増大か、さもなければ見えないものの不意の充溢による物狂おしさのようなもの」。それが「わたし」の内部に満ちあふれてきて「ついに」と決壊したわけです。そして詩的宇宙空間に雪崩れのような奔流が始まり、非現実的な出来事が次々と結晶化と溶解をめまぐるしく繰り返してゆくー。「来たりつつある水晶を生きようとしている」という撞着した、舌を噛みそうな言い回しに感じられる音韻のつらなりのぎこちなさには、「わたし」自身もまた結晶化してゆく中で苦しげに語っているような印象を持ちます。そして「わたし」は奔流に身を任せるしかない木の葉ほどの意識にすぎなくなります。
「水晶狂い」とはそのような決壊のきっかけとなった「物狂おしさ」がきわまり、結晶化し、白熱化した心の状態を指すのでしょう。「わたし」を詩作へと誘引しながら、詩作の奔流の中で突き放す「渦状星雲」=詩は、追えども追えども逃げてゆく。逃れても逃れても追ってくるのです。「おそるべき明晰なスピードで」「わたし」が書きつつある言葉を、詩空間そのものが否定し変形してゆくーこの詩はそんな詩作の真実の実況中継です。「ひとつの叫びがいま/だれにも発音されたことのない氷草の周辺を/誕生と出会いの肉に変えている」ーもはやこの「発熱」し「混沌」とする空間では、どんなに必死に実存者としての叫びを上げても、それはちっぽけな「氷草」の周辺を、「誕生と出逢いの肉」つまりわずかなコミュニケーションの土壌に変えるだけです。そこにあるちっぽけな「氷草」の名前さえ言い表そうとしても叶わない。詩作の中で「わたし」は無力なのです。
 しかし、奔流は「とつぜん」転調し鎮まります。

“痛烈な断崖よ とつぜんの傾きと取り除けられた空が
鏡の呪縛をうち捨てられた岬で破り引き揚げられた幻影の
太陽が暴力的に岩を犯しているあちらこちらで
ようやく 結晶の形を変える数多くの水晶たち”

 引用箇所の直前まで荒れ狂っていた詩空間は、ここで鎮静化し、奔流のエネルギーを結晶化のエネルギーへと転換してゆきます。ただこの引用箇所の主語と述語の関係は複雑です。「とつぜんの傾きと取り除けられた空が」の述部は、「うち捨てられた」なのか「引き揚げられた」なのか。あるいはその両方なのでしょうか。また「鏡の呪縛をうち捨てられた」とは、「わたし」が「わたし」という鏡像を失うということであり、世界が世界という鏡像を失うということでもあるのでしょうか。けれどそこに自己解放の自由の喜びは感じられません。「うち捨てられた」という言葉には、無念ささえ感じます。なぜなら詩を書くために鏡は自分に立ち戻るために必要なものだからです。そして奔流の「暴力性」にあらがうために、「わたし」は木の葉ほどちっぽけなものでも「わたし」であることを手放してはならないから。しかし他方で、奔流の「創造性」に与るためには、「わたし」を「うち捨て」なくてはならないのです。その矛盾の中では「わたし」と「世界」は鏡像でもなく、だが実像にも戻れない「幻影」となるのです。詩空間の奔流の暴力性はまだ残存し、散発的に各所を破壊しつつも(「太陽が暴力的に岩を犯しているあちらこちらで」)、奔流の創造性はやがて波に洗われた岩で輝き出すのです(「ようやく 結晶の形を変える数多くの水晶たち」)。
 一体何が起こったのでしょう? 「痛烈な断崖よ」以下は、どこかアルチュール・ランボーの詩「大洪水のあとで」で描かれる風景を思わせます(渋沢氏がランボーの詩性に共鳴していたことは、そのランボー論からも分かります)。洪水のごとき奔流をこのように鎮静化し、詩空間を創造のエネルギーで静かに輝き渡らせたものは何なのでしょうか。
 その答えは続く4行を読むと見えてきます。

“わたしにはそう見える なぜなら 一人の夭折者と
わたしとの絆を奪いとることがだれにもできないように
いまここのこの暗い淵で慟哭している
未生の言葉の意味を否定することはだれにもできない”

「わたし」にはじつは忘れがたい「一人の夭折者」が存在していたのです。二人の「絆を奪いとること」は「だれにもできない」ほどの、愛する夭折者が。どんな奔流の暴力も届かない「ここのこの暗い淵」で、いまこそ彼を悼むための言葉の「慟哭」が始まります。いいえ、「始まる」のではなくずっと言葉はそこで哭いていた。「わたし」は詩の奔流に流され、叫びさえ剥ぎ取られ、もはや慟哭の主体ではありえなくなっているけれど、しかし言葉は、慟哭を続けていた。「未生の言葉の意味」は、ふるえていた。「未生の言葉」とは前述の「自分以外のいかなるものによっても犯されることのない、独自の言葉」と同じものでしょう。つまり新たな詩のことです。それは「未生」ではあるけれどすでに意味をもってそこに生まれかけている言葉。その意味とは、「自分以外のいかなるものによっても犯されることのない」純粋な悲しみと、「夭折者」を永遠に悼む心そのもののことでしょう。
 では「夭折者」とは一体誰なのでしょうか。
 『渋沢孝輔全詩集』(同)巻末の年譜を見ると、「水晶狂い」を収めた『漆あるいは水晶狂い』(同)が刊行された1969年1月に「兄事していた橋本一明死去。」とあります。そして『漆あるいは水晶狂い』の刊行は同年10月です。橋本一明氏にはご存知の方も少なくないでしょう。渋沢氏はエッセイ「橋本一明ー思い出と一緒に」という追悼文を書いています。その一部を紹介します。

「橋本一明という名がぼくの脳裏に最初に刻み込まれたのは、原口統三の『二十歳のエチュード』の編纂者としてであったが、それはこちらがまだ中学生のころであった。そのころから、彼の名は清岡卓行のそれとともにぼくの憧れの的だったのだ。だから、これも奇しきめぐりあわせで(渡辺一夫先生のお陰でもあったが)、学校を出てすぐフランス語の講師の口をまわしてもらうことになって、江古田の武蔵大学(彼がそれまで非常勤でいっていた)に彼を訪ねていったときには、ぼくはかなり緊張していたように思う。待ち合せ場所の大学の事務室に入ってゆくと、立ったまま事務員と話していた若くてすらりとした清潔な感じの人物が、「やあ」と気軽に声をかけてくれた。」

   渋沢氏の橋本氏への敬愛の深さは、橋本氏の没後に飯島耕一氏と、橋本氏の愛したランボーの故郷の街シャルルヴィルを訪れたという事実からも分かります。しかし街はとても殺風景な印象でした。「あのすぐれたランバルディアンの
追悼のためでなかったら、果してシャルルヴィルくんだりまで出掛けていったかどうかわからない。」
   ここでランバルディアン(=ランボー研究家)と呼ばれた仏文学者、橋本氏は42歳で癌で亡くなります。さらに橋本氏が編纂した『二十歳のエチュード』の著者で詩人の原口統三は、19歳で入水自殺を遂げます。とすると「夭折者」とは橋本氏のことでしょうか。それとも原口氏のことなのでしょうか。それとも二人が重なり合った深い影のような存在でしょうか。

“痛いきらめき 巌に花もあり そして
来たりつつある網目の世界の 臨界角の
死と愛とをともにつらぬいて
明晰でしずかな狂いだ 水晶狂いだ”

 このようにこの詩は喪の感情をたたえながら、新たな「水晶狂い」が始まろうとするところで終わります。
 この終結部を私なりに解釈してみます。
 いま、喪の感情に呼び寄せられて新たな言語秩序(「網目の世界」)が「来たりつつ」ある。「臨界角」の「死と愛」とは、もう少しで眩しく全反射して消滅しそうな「わたし」=実存のすがた(「臨界角」とは「屈折率が大きいところから小さいところに光が向かうとき、全反射が起きる最も小さな入射角」)。喪の感情を昇華した「水晶」が輝く。新たな「水晶狂い」が、世界を裏返した反世界が始まるーー「明晰でしずかな狂い」とは、涅槃のような極北の詩作の境地のことを言っているのではないでしょうか。 

 以上「水晶狂い」を私なりに詩行を追ってみました。私自身の詩作経験のイメージを重ねながら。

「水晶狂い」が書かれた時から半世紀以上になります。今このとき、「詩を書きたい」という思いはこの世界にまだあるのでしょうか。あるとすれば、どのようなものになっているのでしょうか。そして詩作とはいかなる行為なのか。
「水晶狂い」の時を超えた美しさは教えてくれます。詩作とは、詩という不可能な、白熱したものの側に立ち、この社会や歴史の構造や方向性を内的に全面的に否定し、「わたし」すら失う行為なのだ、と。つまり狂気であると。もちろん渋沢孝輔の詩は狂気ではなく、詩作という狂気を美しいイメージで虚構として描いたものです。詩作は狂気、水晶狂いであるという詩人のマニフェストでもあります。しかし今、そう発言すること、あるいは思うことすらタブーとされていないでしょうか。そんな萎縮が、現代詩の言葉を死んだものにしています。けれど現代の詩であるとは、ランボーやマラルメやロートレアモンやブランショやヘルダーリンやツェランやフーコーの、死後を生きることなのです。もちろん渋沢孝輔の、永遠の死後も。

2024.3.25黒田喜夫「人形へのセレナーデ」」(河津聖恵)     

人形へのセレナーデ

小さな箱に人形がいた
箱から見ていたガラスの目で
箱の外は夜の部屋だ
夜の部屋からチェロが見ていた
黙り込んで窓の外を見ていた

窓の外には何があるのか
チェロが振り返ってそれをいう
夜の部屋で人形にいう
人形よ 窓の外にも夜がある
けれども夜と共に世界がある
夜と世界のことをきみに話そう

それから言葉ではなくチェロはうたった
チェロは沈黙のあとの夜の唄を
夜と世界が見えるものの苦しみの唄を
人形よ きみの応えを聴くまで
小さな箱のなかの
ガラスのガラスの人形の目に

 この詩を初めて読んだのは2015年秋。場所は親戚を訪ねて立ち寄った、詩人の故郷である山形県寒河江市の、駅前にあるホテルの部屋です。
 寒河江を訪れたのは2度目でした。じつは私は寒河江に親族がいるのです。と言ってもその方と初めてお目にかかったのはそのほんの数年前のこと。それが最初の訪問でした。そして寒河江が黒田の故郷であると意識しながら彼の詩を読み始めたのは、もう一度訪れようと考えてからでした。
 もちろん黒田の詩は以前から知っていましたが、それらを故郷と結びつけて読むことはなかったように思います。しかし寒河江の町を黒田の故郷として意識して歩き回ってからは、黒田を読む時はいつもどこか、空の広さ、豊かな自然、そして最上川の煌めきの記憶が脳裏をよぎるようになりました。

 前置きが長くなりました。では冒頭の詩について語りたいと思います。これは「音楽家の友への五つの詩」と題する連作の、2番目に位置する詩です。
 黒田の詩でよく知られているのは「燃えるキリン」、「毒虫飼育」、「ハンガリヤの笑い」などでしょう。それらの詩の時空には共通して独特の特徴があります。それは、イメージが語り手の内面と連動して変化し、詩の全体が流動していくこと。語り手は流動のただなかで恐怖し、その恐怖は膨れ上がり、詩は思いがけない方向に引き裂かれていきます。また詩には様々な要素が混淆します。単純化すれば無意識、時事性、土着性、抒情性など。また自他がいつしか入れ替わるシュールレアリズムの手法と、現実全体が幻想へと大胆に反転していく展開も特徴です。そのように黒田の主たる詩は、創造と破壊という正反対の力によってみずからを揺さぶっているのです。
 しかしこの「人形へのセレナーデ」はとても静かな詩です。流動性の不安や激しさはありません。時空の変化も殆どありません。登場人物であるチェロは、対象である人形との距離を縮めず、語り手も孤独なチェロに共感しながら、チェロに憑依しません。ここでは内面も含めて動くものはないのです。語り手とチェロの静かな独白だけが、時折交替しつつ詩を満たしていきます。
 連作のタイトル「音楽家の友への五つの詩」にある「音楽家」とは、各篇に登場し、語り手から「きみ」と呼びかけられる人物たちです。チェロは「きみ」と呼びかけられませんが(人形はチェロに「きみ」と呼びかけられますが)、「彼」もまた「音楽家」の一人です。しかし他の4人と大きく違う点があります。
 じつは他の4人の音楽家はみな詩の結末で激しい自死を遂げるのです。作者のタナトスあるいは身近な自死者への哀悼がそこに投影あるいは浸透しているのでしょう。高所から投身する「楽団のない若い指揮者」、みずから肩の上に高く積んだ煉瓦が崩れ圧死する「ピアニスト」、「マヤコフスキーの短銃で金属の苦悩を砕く」「ギター弾き」、「崩れおちる交響曲」を「ただ一度の生の音」で断ち切る「シンバルを叩いた人」ー。詩は生から死へ激しく展開します。しかしこのチェロが自らを破壊することはありませんし、そもそも物理的に出来ないのです。もしチェロに弓があればそれも可能かも知れませんが、この詩に弓の存在はどこにも描かれません。
 もし他の4人の「音楽家」と同様に、チェロにも自分を壊すことが出来る力があれば、そうしたかも知れません。なぜならチェロは4人と同様に、孤独と無理解に苦しんでいるからです。「夜と世界が見えるもの」である苦しみと、その苦しみを誰とも語り合うことのできない孤独の闇に独白は取り巻かれています。そんなチェロもまた言葉に絶望している。しかし他の4人と違うのは、チェロはみずからの身体で(たとえ音は聞こえなくても)鳴動する=うたうことが出来るという点です(「それから言葉ではなくチェロはうたった」)。さらにチェロは本当には孤独ではありません。耳を傾ける者は誰もいなくても、ガラスの箱の中のガラスの目を持つ人形がいつもそばにいます。向き合い見つめ合うことは出来なくても。チェロだけが覚醒し、人形は無機物のままであっても。しかし人形は本当に無機物でしかないのでしょうか。時にどこかから差し込むヘッドライトの光によって目が光るとき、生きているようにも思えるのではないでしょうか。その一瞬、チェロの孤独は癒されるのではないでしょうか。
 今はまだ無機物でしかない人形が、自分のうたの力によっていつか心を持ち、応えてくれる時がきっと来るーチェロはそう信じているのではないでしょうか。だから忍耐強く「夜と世界が見えるものの苦しみの唄」をうたい続けます。その無償の意志に、私は詩人というものの純粋な姿を見る思いがします。
 他の4篇の「音楽家」のように、チェロは作者のタナトスによって突き動かされることはないのです。人形が無機物であり続け、「夜と世界が見えるものの苦しみの唄」に応える兆しが今はなくても絶望はしていない。そのことはこの詩の雰囲気からも感じ取れます。深い夜の片隅で見えない物質的な輝きと、聞こえない重層的な弦の響きを密かに増すチェロは、人間には感受出来ない人形の命の気配、不思議な鼓動を聴き取っているのではないでしょうか。詩の最終行「ガラスのガラスの人形の目に」の、「ガラスの」という畳句に私はそれを感じるのです。なぜ2回繰り返すのか。それは箱と人形の目の二つにガラスが使われているからでもあるだろうし、「セレナーデ」としての音楽的印象を持たせようとしているからでもあるでしょう。しかしそれ以上に、美しいガラスの目を持つ人形へのチェロの恋心を表現しているのではないでしょうか。ちなみにセレナーデとは、愛する女性に向かって、夜に男性がリュートなどの弦楽器を窓下などで奏でながら歌う楽曲のこと。男性であるチェロは、女性である人形に叶わぬ恋をしているのです。
 さらに言えばチェロの聞こえない恋唄は、未知の連帯を呼びかける歌でもあるのではないでしょうか。黒田の真の理解者だった谷川雁は1958年「連帯を求めて孤立を恐れず」という名言を書き記しました(「工作者の死体に萌えるもの」)。これは60年安保への反対運動を経て後の全共闘運動の中で新左翼の合言葉のように流布されていきます。ちょうどその頃にこの「人形へのセレナーデ」も書かれたようです。正確な制作年月日は不明ですが、この作品を収めた詩集『不安と遊撃』は1959年12月刊であり、『黒田喜夫全詩』の年譜によれば、この詩集の「中心的作品」は結核が再発した1958年から59年にかけて書かれたとのことです。そのような事実を考え合わせてみると、チェロが窓の外に見ていた世界が見えてくるようです。1960年4月大手術を受け、8月には危篤状態に陥ります。しかしそのような絶望的な健康状態において、群衆が取り巻く国会前の騒然とした空気を、病室の暗がりで横臥の身に遥かに感受していたことを綴った日録を読んだ記憶があります。未知の連帯が生まれつつあることへの希望と、そこに参加出来ない焦燥感とのはざまで、詩人の魂は密かに、「夜と世界」に向かって鳴動していたのだと思います。このチェロのように。そしてガラスのガラスの未来にいる者たちの応えを、詩の中で今も待っているのかも知れません。

2024.1.27                     尹東柱「序詩」


死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥じ入ることもないことを
葉あいにおきる風にすら
私は思いわずらった。
星を歌う心で
すべての絶え入るものをいとおしまねば
そして私に与えられた道を
歩いていかねば。

今夜も星が 風にかすれて泣いている。
            1941.11.20
             (金時鐘訳)

 もうすぐ2月です。毎年この月になると、季節が見えないところで大きく動く感覚をおぼえます。まだ冷たい風の中にもふと春を思わせる明るい日差しが差し込んだりすることも増えていきます。冬でも春でもない季節のエアポケットとでも言えるでしょうか。不思議な透明な空気の中で、木々の梢が光りだしているのに気づきます。
 けれど月の半ばくらいに余寒というのか、急に冷え込む事があり、その寒さは寒がりの私には妙にこたえるものがあります。そんな2月の初めから半ばにかけて、寒さと共におのずと思い出されてくるのが、戦前、当時植民地下の朝鮮から日本に渡航し、京都の大学で英文学を学んでいるさなかに治安維持法違反で逮捕され、解放直前の1945年2月16日に旧福岡刑務所の独房で獄死した詩人、尹東柱です。
 尹の略歴は以下のようです。

「1917年12月30日、北間島(プッカンド、現・中国吉林省延辺朝鮮族自治州)・明東(ミョンドン)村生れ。ソウルの延禧(ヨニ)専門学校を卒業後、1942年 日本へ渡航。43年同志社大学英文科に在学中、治安維持法違反で逮捕され、解放直前の45年2月16日、福岡刑務所で獄死する。没後刊行された『空と風と星と詩』は、韓国でロングセラー。同志社大学と京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)に詩碑がある。享年27歳。」(河津聖恵『闇より黒い光のうたを』藤原書店より。)

    私は2007年頃、金時鐘さんの訳の『空と風と星と詩』を読んで初めて尹東柱の詩世界を知りました。冒頭に全文引用した「序詩」は、その巻頭作です。短い詩ですが、詩集の表題作ということもあり、韓国でも日本でも、尹東柱の代表作として知られている作品だと思います。
 この「序詩」が書かれた背景ですが、詩の末尾の恐らく脱稿日である「1941.11.20」という日付がヒントになります。この頃、植民地下朝鮮では朝鮮民族にとって以下のような苛酷な政策が次々と実施・公布されていきました。

 1940年創氏改名実施、1941年治安維持法改訂、朝鮮思想犯予防拘禁令公布、朝鮮語教育全面禁止。(これ以前にもこれ以後も祖国解放まで暴力的な同化政策が続きます。)

『空と風と星と詩』は延禧専門学校の卒業記念に出版しようとした詩集です。ですが上記のような状況下でハングルでの出版がもはや危険となったため、尹は刊行を諦めます。その代わりに日本へ渡航する前に手書きの原稿でこの詩集を3部作り、1冊は自分の手元に、2冊を友人と教師に託しました。解放後友人が隠し持っていた1冊がこの世に現れ、初めて尹東柱の詩は知られ広く読まれるようになっていきます。その理由は、大きくは非業の詩人の生涯が多くの人の琴線に触れたからですが、どの詩からも心の純粋さ、イメージの美しさが感じ取れ、さらには平易で親しみやすい朝鮮語で書かれていたからでもあります。
 私自身、韓国・朝鮮語の学習を何度やり直しても初歩でつまづいてしまい、今に至るのですが、じつはこの「序詩」だけは曲がりなりにも原語で暗誦出来ます。それだけリズムも語感も、伝わりやすいように考え抜かれた詩なのでしょう。そのようにこの詩の語の多くは簡単な単語ですが、内容は上記の背景も踏まえて考えればじつは多義的です。簡単な単語はじつは暗喩なのです。「空」も「星」も「風」も、当時の時代の闇に相対する尹自身の命のありようを映し出しているのですから。「私」という主語は書き入れられてはいますが、この詩に尹東柱という主体はとても希薄です。何か木々のざわめきや星のふるえる光そのものが、尹東柱自身であるかのように感じられます。

 星を歌う心で
 すべての絶え入るものをいとおしまねば
 そして私に与えられた道を
 歩いていかねば。

という4行がこの詩の絶唱部分です。しかし意志のつよさというより、何か触れれば壊れそうな緊張感を感じます。また私がここで一番気になったのは、「絶え入る」という動詞です。直訳すれば「死ぬ」ですが、私は金時鐘さんが選んだ「絶え入る」という古風な訳語に、「絶滅する」が重なるように思えてなりません。つまり朝鮮民族の、さらには人類の絶滅の予感がそこにはあるのではないでしょうか。もしそうだとすると尹は「死ぬ日まで」という冒頭の言葉を、これから日本へ渡航する自分の死(尹は生体実験で殺されたという説もあります)、さらには21世紀になってもなお続く戦争による無数の犠牲者の死を、遥かに見据え、この「死ぬ」を書き付けたのかも知れません。
 この詩の主体が希薄だと書きましたが、それは、この「絶え入るもの」の中に、それをいとおしむ尹自身が含まれるからなのかも知れません。誰もいない時空に「私に与えられた道」だけが、宿命として純白に浮かびあがっています。そして木々の掠れる音に気づくともう夜です。見上げるための間合いを取るようにして、一行の空白を開けて、詩はこう結ばれます。

 今夜も星が 風にかすれて泣いている。

 この詩の結びで、希望と絶望が打ち消しあったように主体はきれいに消されているのです。木々の音も静まり、存在するのは、夜空の闇に埋もれかけてちらつく小さな星だけ。ところでこの「泣いている」という訳語は、金時鐘さん訳に独特のものです。伊吹郷さんの訳では「ふきさらされる」となっていて、これが一番原語に忠実と思われますが、金さんの訳は、「ふきさらされる」を暗喩と見て、そこに仮託された尹の悲しみをストレートに訳語に反映したのです。
 金さん訳は、他の方の訳に比べて情緒的なのですが、それは恐らく19歳で4.3事件から日本に逃れて来た金さん自身の辛い記憶を重ねてのことでしょう。訳語の適不適は私などには不明ですが、数ある訳者の中でこの「序詩」を暗喩として、本当に理解、実感するのは金時鐘さんだけなのかも知れません。

 生前に出版されることのなかった『空と風と星と詩』に収められた各篇の末尾には、脱稿日と見られる日付が記されています。母国語と文化を奪われ、さらには名前も奪われる(尹は「序詩」を書いた直後に、「平沼」と創氏します)暗黒の時代に、それでも密かに詩を書くことを諦めないことで、「一点の恥じ入ることも」なく生きた証としての日付です。
 ところでこの詩を読んでも分かるように、尹は決して政治的で反日的な詩人ではありませんでした。また朝鮮の詩人だけでなく日本の立原道造や北原白秋や四季派を愛した抒情詩人でした。何よりもリルケは、『空と風と星と詩』の掉尾を飾る詩「星をかぞえる夜」に名前が出て来ます。真実の詩を求めて欧州各地を放浪したリルケ。彼は尹の理想とする詩人だったのだと思います。そのようにただリルケのように生きようとして日本の大学に(英)文学を学びに来た抒情詩人が、なぜ殺されなければならなかったのでしょうか。ある夏の日緑ゆたかな散歩道で、独立運動家の従兄弟と朝鮮語で話していたというだけで、治安維持法違反で逮捕されてしまいました。そして下鴨署で日本に来てから書いたハングルの詩を証拠書類として、尋問を受けつづけたあとで、福岡刑務所の独房に収監され、とても寒い夜に亡くなりました。
 亡くなる直前、尹東柱は独房で叫びを一言上げたといいます。その意味は恐らく朝鮮語だったのでしょう。看取った看守にも意味が分かりませんでした。また、下鴨署の訊問の際に証拠書類として堆く積まれていた詩稿も、敗戦の際に燃やされたといいます。しかし闇に葬られたそれらの言葉は本当にもうどこにもないのでしょうか。私にはこの短い「序詩」の夜空が、それらを見えない星として今も胚胎しているように思えてなりません。
「序詩」を何度も繰り返し読みたい。詩の中の夜空で、ふるえる星が語りかけてくるものをいつか聞き分けたい。この小さな詩は、尹東柱への永遠の旅の入口なのです。

©️Kiyoe Kawazu  河津 聖恵

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