2024.5.28(葛西征子)
私は知った どのようにして人々の顔が痩せこけ
どのようにまぶたの下から恐怖が顔をのぞかせ
どのように楔形文字の苛酷な頁を
苦しみが頬の上に刻み出すかを
どのように灰色まじりの黒髪が
みるまに銀髪と化すかを
ほほ笑みが従順な唇の上で枯れしぼみ
ひからびたくすくす笑いの中で恐怖がわななくかを
私が祈るのは私ひとりのためではない
私とともにあそこで立ち尽したすべての人のため
酷寒のときも七月の炎熱にも
盲目の紅き壁の下で
(木下晴世訳)
もうかれこれ40年ほど前、勤めを辞めて自宅で仕事をするようになったある日の午後、ラジオから詩を朗読しているらしい声が聞こえてきた。人生を充分に生きた女の声、大河の流れを思わせるような、ゆったりと静かな声だった。ロシア語だったから私には意味が分からなかったが、その声の深さに心惹かれて、思わず耳を澄ませた。最後にアナウンサーがその名を告げた。
「アンナ・アフマートヴァ」
それから時が過ぎた。コロナ菌が地球上を駆け巡り、人類を脅かした。そのコロナからまだ解放されずにいるとき、追い打ちをかけるように、世界は突如、ロシアによるウクライナ侵攻のニュースに揺さぶられた。書店にロシアやウクライナ関係の書籍がまとめられて並ぶようにもなった。
ある日ふらりと寄った書店の棚の前に立った時、アンナ・アフマートヴァの名が目に飛び込んできた。『レクイエム』という手のひらほどの小さな詩集の著者として。およそ40年ほど前に耳にしたその人の声が、耳元に甦った。
革命後のスターリンの圧政下で、夫や息子、友人知人の逮捕や投獄、銃殺や自殺があり、追放や流刑地での死があった。自らもまた退廃的詩人とされて、完全な沈黙を強いられる。収入が絶えて、放浪者のようなその日暮らしの日々であったという。
そのころにひそかに書かれた詩群が、この『レクイエム』(1935~1940)だ。差し入れを持って、共に獄舎の前に並んだ女たちに捧げられている。詩は、幾人かの友人の記憶のなかに折りたたまれて、かろうじて保存されて生きのびることができたのであった。
当時の様子を、L.チュコフスカヤが『アンナ・アフマートヴァ覚書』の中でこのように語っている。
「アンナ・アンドレ―エヴナ(アフマートヴァ)はうちに来るとやはり囁き声で『レクイエム』の詩を読んでくれたが、噴水邸の自分の部屋では囁くことさえためらった。
突然話の最中に黙り込むと、私にむかって天井と壁に目配せして紙きれと鉛筆をもつ。それから大きな声で『お茶は要りませんか?』とか『とてもお疲れのようね』と当たり障りのないことを言って、それから紙に走り書きをして、私に差し出す。詩を読んで記憶すると、私は黙って彼女に返す。『漸く秋になりましたね』と大きな声でアンナ・アンドレーエヴナが言い、マッチを擦って灰皿で紙を燃やす。それは手とマッチと灰皿がおこなう儀式、美しく痛ましい儀式だった。」
そんな時代があった。そんな時代を生きた詩人がいた。
当時私は中学生?だったが、毎日のようにラジオから「粛清」という言葉が流れていたことを記憶している。
「自由」が奪われていた時代、社会の証言として、アフマートヴァの言葉は、いまなお生きている。
年譜によると、アンナ・アフマートヴァは、1889年にオデッサに生まれた。1917年ロシア革命。46年に、退廃的詩人という烙印を押されて完全な沈黙を余儀なくされる。1953年のスターリン没後、56年第20回共産党大会においてアフマートヴァの名誉回復。1966年3月5日、モスクワ近郊のサナトリウムで死去。
ロシアによるウクライナ侵攻、その後のイスラエルによるガザへの残虐、そればかりではない、この地球上のあちこちで紛争は絶えることなく続いている。
憎しみから争いを始めるのは人間。しかし、争いを収めることができるのも、人間なのだ。
1951年、サンフランシスコ講和会議において、のちにスリランカ大統領となる若き政治家ジャヤワルダナ氏が、ブッダの言葉を引用して、各国代表に向かい、日本に対する寛容を説き、日本に対する賠償請求を破棄する、と宣言したのであった。当時一部の国々からは、日本分割論も出ていたのであった。
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みをすててこそやむ。これは永遠の真理である。」(ダンマパダ5)
かつて実際にこんなことがあったことを、私は時折、感動とともに思い起すことがある。
最後に、もう一つ、新聞で見た小さな詩人の詩をご紹介したい。イスラエルのガザ攻撃が始まって間もないころ、テレビのニュース解説で盛んに使われていた言葉に、少女は気づいたのだ。
ママ
にくしみってなに?
にくがしみるの?
「憎しみ」という言葉を知らなかった5歳の女の子は、「肉が沁みる」のかと、母親に問うているのだ。母は何と答えたのだろう。
これもまた、読む者の胸を衝く時代の証言だと言わなければならないだろう。